プロ野球史上まれに見る珍記録5選




Pocket

5、松本奉文

広島県出身で地元の崇徳高校を卒業後、亜細亜大学を経て広島に入団した松本奉文さんは現在広島のスカウトとして活躍中です。

 

2005年4月21日に死球を受けたあと試合に出ていなかった松本選手は、ファームぐらしを経て、

 

6月8日のソフトバンクとの交流戦で久しぶりに打席に立ち、斉藤和巳投手から死球を受けました。

 

松本選手は、翌日も7回に代打で登場しペドロ・フェリシアーノから死球を受けると、9回の打席でも三瀬幸司投手のストレートを足に受け、4打席連続デッドボールを記録しました。

 

6月10日の楽天との試合で途中出場した松本選手はショートゴロにたおれ、連続死球記録は途絶えました。

 

それまで連続死球の公式記録はとられていませんでしたが、おそらくこの4打席連続死球がプロ野球記録でしょう。

 

 

 

4、グスマン

メジャーリーグ経験者で2002年に横浜ベイスターズに入団したドミンゴ・グスマン選手は、ドミニカ出身のピッチャーでした。

 

来日2年目、2003年3月29日の阪神戦で三振を喫したグスマン選手は、その後も打席に立つたびに三振しました。

 

4月は4試合に登板し9打席9三振を記録したグスマン選手は、5月1日に4三振して世界記録を更新します。

 

5月7日の試合でさらに3三振したグスマン選手は、5月13日の最初の打席でも三振してしまいます。

 

これにより18打席連続三振という前人未到の不名誉な世界記録を樹立しました。

 

 

3、中島裕之

中島裕之さんは兵庫県伊丹市出身で、現在オリックス・バッファローズの内野手です。

中島選手が通っていた伊丹北高校は強豪ではありませんでしたが、中島選手は西武ライオンズのスカウトに見出されてドラフト指名されました。

 

西武に在籍していた2012年3月31日、中島選手はプロ野球史上初の1イニング2盗塁死を記録しています。

 

レフト前ヒットで出塁した中島選手はピッチャーのけん制で一・二塁間に挟まれますが、日本ハムの二塁手、田中の悪送球で一塁に戻ります。

 

そのまま一塁に残った中島選手は二死後再びけん制でアウトになり、1イニング2盗塁死となりました。

 

このとき、公式記録上では盗塁死と二塁手のエラーが記録されました。

 

 

2、溝部武夫

奈良県の旧制郡山中学で夏の甲子園に出場した経験のある溝部武夫選手はアンダースローのピッチャーでした。

 

1937年に阪急軍に入団したものの翌年召集され離脱し、1941年に復帰して再び召集されます。

 

戦後阪急に戻った溝部選手は戦争に出ていたせいか往年の勢いはありませんでした。

 

復帰した1946年には18登板して6勝3敗の成績をあげたものの、翌47年は1勝もあげることができず、48年も勝ち星がないまま現役を引退しています。

 

1947年4月20日、阪急ブレーブス対大阪タイガースの試合で、溝部投手は現在も破られていないプロ野球記録を作ります。

 

溝部投手は「ダイナマイト打線」と呼ばれたタイガースを相手に4者連続で押し出しのフォアボールを与えたのです。

 

 

1、木塚忠助

佐賀県の唐津中学で野球を始めた木塚忠助さんは県大会で1試合16奪三振を記録する好投手でした。

 

社会人野球を経て南海ホークスに入団してからの木塚選手は、俊足・強肩で観客を沸かせる内野手として名をはせました。

 

守備範囲も広く、多くのポジションをこなせる名選手だったため、日本人で初めてメジャーリーグから誘いを受たこともありました。

 

そんなスター選手であった木塚選手が持つプロ野球記録は、なんと、エラー記録です。

 

1949年9月29日の南海ホークス対大陽ロビンス戦で、木塚選手は6つのエラーを記録しています。

 

三塁手として3エラー、遊撃手として3エラーです。

 

ちなみに、この試合の後、同じ西宮球場で行われた変則ダブルヘッダー第二試合では、阪神の本堂保次二塁手が1イニング4エラーの日本記録を作りました。

 

こうなると、その日の試合が行われた西宮球場のグラウンドに何か問題があったのかなとも思えますね。

 




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です