5、ペロ・アグアヨ・ジュニア
ペロ・アグアヨ・ジュニアは、新日本プロレスで活躍したメキシコ人レスラー、ペロ・アグアヨの息子です。
1979年に生まれ、15才の時にメキシコでプロレスラーデビューを果たしました。
20才の時には父・ペロ・アグアヨの引退ツアーで来日し、新日本プロレスにも参戦。
突然の悲劇が起きたのは、2015年3月20日メキシコのティファナで行われた記念興業の時でした。
タッグマッチで4人入り乱れての乱戦の中、リングから転げ落ちたペロ・アグアヨ・ジュニアがリングに戻った直後、
相手のドロップキックを首に受けたのち、そのままロープにもたれかかったまま動かなくなりました。
この時、意識を失っていましたが、周りは気づかなかったため数分間試合は続きます。
ようやく、異変に気付いた関係者が彼を揺さぶり起こそうとしますが、ぐったりしたままだったため試合は中断。
すぐさま救急車で運ばれましたが、翌日の深夜死亡が確認されました。享年35歳でした。
死因はドロップキックを受けた際に頸椎を損傷したことだったそうです。
4、プラム麻里子(まりこ)
プラム麻里子は1967年に生まれ、18才の時ジャパンプロレスの第1期生として入門し、同年にデビュー。
第4代UWA女子インターナショナル王座の獲得など人気と実力を兼ね備えたプロレスラーでした。
事故は1997年8月15日広島県立総合体育館で行われたタッグマッチで起きました。
プラム麻里子は対戦相手だった尾崎魔弓選手からライガーボムを受け、ピンフォール負けを期したのちに意識を失います。
救急搬送された病院で脳の開頭手術が行われ無事に成功しました。
しかし、翌日に急変し急性硬膜下出血並びに脳挫傷によって亡くなりました。
対戦相手の尾崎選手は同期の親友が亡くなってしまい、プロレスをやめようと考えたそうですが、続けることを決意。
今でも毎年、プラムさんの追悼イベント「プラムの花咲くOZの国を行っています。
3、門恵美子(かどえみこ)
門恵美子さんは1976年大阪府で生まれ、学生時代はソフトボールの選手でした。
23才になってアルシオンという団体でプロレス初デビューを果たします。
それから数か月後の1999年3月31日、福岡市で行われた試合中に事故は起きました。
門さんは、先輩レスラーの吉田万里子さんに側頭部からマットに落とされ意識不明になってしまいます。
すぐさま病院に運ばれ開頭手術を受けましたが、9日後に亡くなりました。享年23才でした。
吉田万里子さんはその後もプロレス活動を続け、今も門恵美子さんの命日には彼女が好きだったドラえもんの人形と彼女の写真をツイートしています。
2、福田雅一(ふくだまさかず)
福田さんは1972年に栃木県で生まれ、少年時代は野球や相撲の選手として活躍。
高校進学後はレスリングを本格的に始め、大学4年の時に国民体育大会で準優勝した腕前の持ち主です。
大学卒業後は、レッスル夢ファクトリーというプロレス団体に加入。
1999年には新日本プロレスに移籍し2000年には、あの橋本真也VS小川直也戦で橋本選手のセコンドを務めていました。
その試合から1週間後の2000年4月14日宮城県気仙沼市での試合中に事故は起きました。
福田さんは相手選手からエルボーを受けて意識不明の重体になり、病院に運ばれます。
しかし、それから5日後の4月19日、急性硬膜下血腫のため亡くなってしまいました。
この前年10月に硬膜下血腫で4カ月間欠場したことがあり、その後遺症が原因だったと言われています。
1、三沢光晴
三沢光晴さん1962年北海道で生まれました。中学の時にプロレスラーになることを志し、高校ではレスリング部に所属。
高校卒業後すぐに全日本プロレスに所属。二代目タイガーマスクとして活躍するなど人気のプロレスラーでした。
2009年6月13日広島県立総合体育館でのタッグマッチで事故は起きてしまいます。
相手選手から急角度バックドロップを受けて意識不明、心肺停止状態になってしまいました。
すぐさまトレーナーや関係者、プロレスラーらに囲まれ、心臓マッサージが開始されます。
その間、観衆からは大きなミサワコールが何回も起きました。
そこへ救急車が駆けつけ、隊員による救命措置がリング上で続けられましたが、三沢さんが動くことはありませんでした。
その後、プロレスラーたちも手伝って担架に乗せ、広島大学病院へ搬送されましたが、午後10時10分、頸髄離断により死亡が確認されました。
享年46才。最後まで戦い続け、まさにプロレスに捧げた生涯でした。
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