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オリンピックの試合で 不正を行った選手5選

5、ドラ・ラチエン

1936年のベルリン・オリンピック、女子走高跳で4位に入賞したドイツのドラ・ラチエン選手。

彼女のこの時の記録は1メートル58センチでした。

それから2年後にドイツ領となっていたウィーンで開かれたヨーロッパ陸上競技選手権大会で、

当時の世界記録となる1メートル70センチを記録して金メダルを獲得しました。

しかしこのヨーロッパ陸上競技選手権大会終了後、事件は起きました。

彼女がウィーンから自宅に帰ろうと列車に乗ったところ、途中駅で「女装した男が車内にいる」と通報があり、事情聴取されたのです。

最初彼女は身分証明証を見せて女だと言い張ったものの、最終的には男性であることを告白しました。

ラチエンは性器が変わった形をしていたために、生まれたとき女の子と判断されて、そのまま育っていました。

その後、そのことをナチスドイツに利用され女性としてオリンピックに出場させられていたのです。

この事件後は、性別を男性に改め、父親の飲食店を継いだそうです。

 

4、アンナ=マリア・ミューラー

1968年、冬のグルノーブルオリンピックにリュージュ一人乗り競技に18歳で出場した東ドイツのアンナ=マリア・ミュラーは、

同僚エンダーラインに次ぐ2位の成績で銀メダルを獲得しました。

しかし、競技が終了してから東ドイツチーム全体の不正が発覚しました。

そりが氷面と接するランナーという部分を滑りが良くなるように暖めていたのです。

これによって金メダルのエンダーライン、銀メダルのミューラー、4位入賞のクネーゼルが失格となりました。

ただし、この話には続きがあります。

アンナ=マリア・ミューラーは次の札幌オリンピックにも出場して、今度は正真正銘の金メダルを獲得しました。

 

 

3、ボリス・オニシェンコ

ボリス・オニシェンコは近代五種競技のソ連代表としてメキシコ・オリンピックと、ミュンヘン・オリンピックに出場し、

続くモントリオール・オリンピックではフェンシングのエペの代表にもなりました。

近代五種競技では前回・前々回のようにメダルを獲得することはできませんでしたが、

フェンシングをする彼の剣さばきは正確で早く、簡単に勝ち進んでいきました。

しかしイギリスの選手と戦ったとき、相手側から採点がおかしいと抗議の声があがりました。

オニシェンコの剣は相手に当たっていないのに得点を重ねているという抗議でした。

オニシェンコの剣を詳しく調べると、実際には相手の体に触れなくても衝撃を与えたと信号を送るように回路が改ざんされていたのです。

これによってフェンシングソ連代表全体が失格となり、オニシェンコは逃げるように選手村を脱出しました。

そして、ソ連に帰国してから当時の最高権力者ブレジネフのもとに謝罪しに行きましたが、

すべての称号を剥奪され、後半生を故郷キエフのタクシー運転手として過ごすことになりました。

 

 

2、マデリン・デ・ヘスス

1984年のロスアンジェルス・オリンピックに走幅跳のプエルトリコ代表として参加したマデリン・デ・ヘススは競技中に負傷し、

もう一つエントリーしていた1600メートルリレーには出場できそうにありませんでした。

しかし、姿がよく似た双子のマルガレット・デ・ヘススも400メートル競走に出場していたので、

マルガレットがマデリンの代わりに第2走者としてリレーに参加して、決勝進出を決めました。

この不正に気づいたプエルトリコチームの監督は決勝出場辞退を決めるしかありませんでした。

 

1、ベン・ジョンソン

1984年のロスアンジェルス・オリンピックでアメリカのカール・ルイスが4つの金メダルを獲得したとき、

カナダのベン・ジョンソンはまだ無名で、100メートル競走で銅メダルに輝いたものの特に話題になるほどの選手ではありませんでした。

しかし次のソウル・オリンピックでは二人はライバルでした。

100メートル競走の決勝で、ベン・ジョンソンがいつものようにロケット・スタートを決めると、

後半に強いカール・ルイスも最後まで追いつくことはできませんでした。

ベン・ジョンソンの記録は9秒79という当時の世界記録でした。

ところが競技後のドーピング検査でベン・ジョンソンは陽性となり、メダルと記録がはく奪されました。

本人は故意にドーピングはしていないと言い張りましたが、続くバルセロナ・オリンピックでもドーピング検査で陽性になり、

国際オリンピック委員会のドーピング・ブラックリストに彼の名前が登録されてしまいました。

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