5、ウォルト・ディズニー
ディズニー映画とミッキーマウスの生みの親であるウォルト・ディズニーは1901年にシカゴに生まれました。
夢の国ディズニーランドや、多くのアニメ映画で世界に夢と希望を与えた彼ですが、アニメ会社を立ち上げる前は意外な仕事に就いていたのをご存知でしょうか。
ウォルトは高校生の頃、マンガが好きだったので高校に通いながら美術大学の夜間部で絵を学んでいました。
しかし、第一次世界大戦が始まると兵士になることを決意します。
高校も夜間学校も辞めて陸軍兵士に志願したのですが、ウォルトはまだ16歳だったため、説得されてアメリカ軍の兵士ではなく赤十字社の衛生兵になりました。
こうして衛生兵として国外で1年ほど働いたころに終戦を迎え、帰国することになりました。
その後、19歳のときに友人と会社を作ってアニメーション映画に携わり、ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオを設立。
私たちの知る後のウォルト・ディズニー・カンパニーになります。
4、ケン・チョン
アメリカで俳優・コメディアンとして活躍中のケン・チョンは、舞台のコメディアンとして人気を博し、その後コメディ映画にも出演するようになりました。
映画「ハングオーバー」シリーズでは、ファンキーすぎる売人、レスリーチャウを演じ話題になりました。
この役柄のイメージが強く、生粋のコメディアンのようなイメージの彼ですが、実はかなりお堅い前職を持っています。
実は彼は、手術の執刀経験もある外科医という意外な前職を持っているのです。
彼がエンタテイメント界に足を踏み入れるのは1995年頃のことです。
ノースカロライナ大学を卒業して医師になったばかりのころでした。
はじめはニューオリンズの病院で働いていましたが、NBCというテレビ局が彼のコメディアンとしての才能を買ってくれたため、その局があったロサンゼルスに引っ越します。
ロサンゼルスでも外科医として勤務しながらコメディアンとしての活動を続けました。
ケン・チョンが医師を辞めてコメディに専念するのは映画に出演することになった2007年、彼が38歳のときでした。
その後「ハングオーバー」など人気映画に出演するようになった彼はテレビなど活躍の場を増やしています。
3、スティーヴ・ブシェミ
「90年代に最も仕事をした俳優」ランキング4位になったスティーヴ・ブシェミ。
年間6本の映画に出演したこともある多忙な俳優で、時には映画やドラマの監督をすることもあり、そのエネルギーは60歳になった今も衰えていません。
彼の脱力した顔つきからは想像しにくいのですが、彼は実は消防士として働いていた経験があります。
彼は高校を卒業したあと、リー・ストラスバーグ演劇研究所で演劇を学んだ彼はニューヨーク市の消防士になります。
昼間は消防士としてマンハッタンのリトル・イタリー地区に勤務し、夜はスタンダップコメディの舞台に立つ毎日を送りました。
それから、演技の世界に飛び込み、映画に出演するようになります。
さらに意外なことに、彼は役者として成功した今でもボランティアで消防士の活動を続けているそうです。
2001年のアメリカ同時テロ多発事件の時には、がれきの山となったワールド・トレード・センターに一消防士として駆けつけました。
2014年には、この活躍に対し、ニューヨーク市から名誉大隊長の称号が授与されています。
2、パトリック・デンプシー
2005年に始まったテレビドラマ『グレイズ・アナトミー』でブレイクした俳優パトリック・デンプシー。
舞台のオーディションを受けたことで舞台俳優としての活動をスタートとし、1985年に映画デビューを果たします。
彼はオーディションを受けたりしていた下積み時代に、意外な仕事をしていました。
それはジャグラーです。実は彼は10代のころにジャグリングに熱中しており、
15歳のときには、国際ジャグリング協会主催の大会でジュニア2位になった実力の持ち主なのです。
ちなみに、そのとき優勝したのは、今では史上最高のジャグラーと呼ばれているアンソニー・ガットでした。
高校を中退してジャグリングで生計を立てながら、オーディションを受け続けて役者になり、成功を収めたのです。
1、サンドラ・ブロック
数々の映画やドラマに出演し、世界一美しい女性ランキングの1位にも選ばれたことのあるサンドラ・ブロックさん。
彼女は地方の大学で演劇を学んでいましたが中退し、改めてニューヨークの俳優養成学校で学び直します。
その後オフ・ブロードウェイの舞台を経て、映画にも出演するようになります。
彼女が有名になるのは1994年、『スピード』に出演したころからです。
サンドラ・ブロックさんが30歳になる年のことでした。
比較的長い下積み期間、彼女はバーテンダーとして働いていました。
ニューヨークのバーには世界中からありとあらゆるタイプの人が来ていたので、
役者見習いの彼女にとって格好の勉強の場だったと話しています。
それぞれ特徴ある各地の英語のなまりを真似したり、人間観察から得た仕草や話し方を自身の演技に取り入れるなど、このころの経験を芝居に活かしているのだそうです。