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恐れることなく死んでいった人 の最期を捉えた写真5選

5、荒木幸雄

17歳になったばかりの特攻隊操縦士、荒木幸雄伍長は出撃2時間前に仲間と一緒に記念写真を撮りました。

 

腕に子犬を抱いて穏やかな笑顔を見せています。

 

その日の出撃は中止になりましたが、翌1945年5月27日に鹿児島県の万世ばんせい飛行場を出発し、

 

沖縄本島沖にいたアメリカの駆逐艦ブレインに突入しました。

 

ブレインは沈没こそしなかったものの炎上し、乗組員66人が亡くなりました。荒木伍長も戦死しました。

 

彼は出発前に父宛に書いた遺書の中で、光栄な任務を必ず果たすと記しています。

 

彼が戦死したことは半年後に家族に通知されました。

 

荒木伍長を死に追いやった戦争は、そのときにはすでに終わっていました。

みなさんごきげんよう。メイです。

命は何よりも大切です。戦争ほど悲惨なものはないです。 平和ほど、尊きものはないと思います。

 

4、ソ連スパイの笑み

2006年フィンランド政府は銃殺直前にも関わらず笑っている男の写真を公開しました。

 

その写真に添えられた説明は「1942年ソ連スパイの最期」です。

 

1939年、第二次世界大戦勃発を受けてソ連がフィンランドに侵入し「冬戦争」が始まりました。

 

3ヶ月の戦闘の結果、フィンランドは領土の10%をソ連に割譲する条件で休戦協定を結ぶことになりました。

 

そこでフィンランドはソ連から領土を取り返すため、当時ソ連の敵だったナチス・ドイツと同盟を結びます。

 

一方、ソ連は多くのスパイをフィンランドに送り込みました。

 

1941年からの3年間で送ったスパイの数は1428人に上ります。

 

そのうち588人は捕らえられ、161人が死刑となりました。

 

フィンランドはソ連のスパイが銃殺される写真をソ連に送って、そのスパイ活動を抑止するつもりでした。

 

しかし、このスパイは悲しみや恐怖の表情を見せることなく笑顔で死んでいきました。

 

こういった経緯もあったためかこの写真は21世紀に入ってから公開されました。

 

3、ジョージズ・ブラインド

ジョージズ・ブラインドはナチス・ドイツによるフランス支配に抵抗するフランスレジスタンスのメンバーでした。

 

1944年10月レジスタンス活動が原因で彼はナチスに逮捕されます。

 

そして、ドイツのダッハウ収容所で銃殺の刑に処されました。

 

10人以上のドイツ兵が、壁の前に立つブラインドに、銃を向けている写真が残っていますが、これは彼が処刑されるほんの数秒前に撮影されたものです。

 

写真を見ると、ブラインドは銃を構えた兵士に向かって不敵な笑いを浮かべていることがわかります。

 

レジスタンスとして、最後まで抵抗するという彼の強い気持ちが垣間見える1枚です。

 

2、スティエパン・フィリポヴィッチ

スティエパン・フィリポヴィッチはパルチザンのリーダーとして、ユーゴスラヴィア解放のために闘い続けた男です。

 

彼が25歳だった1941年に、ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国すうじくこくの軍隊が、彼の故国ユーゴスラヴィアに侵入。

 

国王ペータル2世は亡命し、ユーゴスラヴィアは枢軸国すうじくこくの支配を受けるようになりました。

 

これに抵抗し続けたのがスティエパン・フィリポヴィッチ率いるユーゴスラヴィア共産党のパルチザンでした。

 

しかし、1942年2月、必死の抵抗も虚しく彼は捕らえられてしまい、その年の5月27日に公開処刑されました。

 

彼は首にロープを巻かれた状態で両手のこぶしを挙げ、「ファシズムに死を、人々に自由を」と叫びました。

 

その瞬間をとらえた写真が今も残っています。

 

第二次世界大戦終了後、フィリポヴィッチはユーゴスラヴィアの国民的英雄と讃えられ今でも慕われています。

 

1、空母・瑞鶴ずいかく

太平洋戦争も終わりに近い1944年10月25日、エンガノ岬沖海戦に参加していた大日本帝国の空母・瑞鶴が

 

アメリカ海軍の攻撃を受けて傾き、ゆっくりと沈みはじめました。

 

瑞鶴は戦闘をやめ、乗組員全員に退艦の命令が出されます。その時、乗組員たちが取った行動が写真に収められています。

 

恐らく全乗組員であろう兵士たちが、傾いた甲板の上で、万歳、敬礼を行っています。

 

この写真の直後、瑞鶴は沈没し、843人もの乗組員たちが戦死しました。

 

大海原で沈みゆく船の上で怖くないわけがありません。しかし、勇敢に万歳、敬礼をした兵士たちは立派だったというほかありません。

 

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