直虎だけではない、戦国の勇ましい女性3選



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歴史上、男勝りに活躍した女性といえば「井伊直虎」が有名ですが、他にも武勲を誇った女性武将などいるのをご存知でしょうか?

 

今回はそんな勇敢な女性について紹介します。

 

3、吉岡妙林

戦国時代に豊後・筑後など北九州を支配した大友氏の家臣であった彼女ですが、本名など詳細な史料はほとんど残っていません。

 

しかし、残されたわずかな記録には、迫り来る島津の軍勢を前にひるむことなく立ち向かった女性だったということが書かれています。

 

彼女は大友家の家臣であった吉岡長増の息子・鎮興に嫁ぎますが1578年に「九州の関ヶ原」とも呼ばれる島津軍との戦である「耳川の戦い」で鑑興が戦死してしまいます。

 

そのため、彼女は出家して妙林尼と名乗るようになります。

 

その後、島津軍は破竹の勢いで豊後地方を次々と制圧していきました。

 

勢いに乗る島津軍は大友宗麟の立て籠もる臼杵城へと進軍するとともに、鶴崎城を攻略するように総勢三千名を派遣します。

 

その時、鶴崎城の城主は鎮興の子である統増でしたが、宗麟と臼杵城へ籠城していたため鶴崎城の指揮権は母である妙林に委ねられていました。

 

 

しかし兵士たちは統増とともに臼杵城へ同行していたため、鶴崎城に残っていたのは老家臣や農民、女子供だけでした。それでも妙林は籠城戦を選択したのです。

 

農民たちに板や畳を持ち寄らせ、城の周りに即席の砦を築き、銃の扱いなどを教え戦闘に備えました。

 

その年の冬に島津軍が攻撃を開始しますが、妙林の仕掛けた落とし穴や罠、鉄砲を利用した奇策に嵌り大苦戦を強いられます。

 

16度も攻撃を仕掛けたものの城を落とす事ができず、最終的には和睦を提案することとなりました。

 

妙林側も全員の命の保証を条件に鶴崎城を明け渡し、酒を振舞ったのですが、夫を討たれた彼女の怒りはまだ収まっていなかったようです。

 

翌年、豊臣秀吉自ら20万の大軍を率いて島津討伐へ向かうとの一報が入ったため、豊後にいた島津軍に撤退命令が下りました。

 

妙林は「島津と酒を酌み交わした仲になってしまったので大友家には戻れない。一緒に薩摩へ連れて行って欲しい」と頼み込み、

 

祝賀と称して島津軍に酒をたらふく飲ませました。実は、これが妙林の策略だったのです。

 

翌日、妙林は二日酔いになった島津軍が帰路につくと、乙津川付近で強襲し63もの首を討取る武功をあげました。

 

その後の彼女の消息は不明ですが、地元では彼女の知略と武勇は語り草になっているそうです。

 

 

2、立花誾千代(ぎんちよ)

立花誾千代は大友氏の有力武将であった戸次鑑連の一人娘として1569年に生まれます。

 

彼女は直虎同様に幼い頃より女城主として君臨した女傑でした。

 

 

彼女の父親である戸次鑑連(べっきあきつら)は、主君である大友宗麟に対しても堂々と意見を言うほどの勇将として知られており、天下にその名を轟かせた人物でした。

 

そんな鑑連の一人娘だった誾千代は男子さながらの教育を受け、7歳の時には立花城の城主になりました。

 

これは通常の男性当主と同じ手続きを踏み、主人である大友氏の許しも得た上での出来事だったのですが、戦国時代ではとても珍しいことでした。

 

その後、高橋紹運の長男・宗茂を婿に迎え、立花姓を名乗るようになります。

 

 

城主は宗茂となりましたが、彼が留守の間は誾千代と侍女が銃を持ち、城を守っていたそうです。

 

また関ヶ原の戦いでは彼女自ら武装して出陣し、敵である鍋島水軍に対し鉄砲を撃ちかけ敵を寄せ付けず、さらに柳川へと進軍する加藤清正の軍勢を威嚇して迂回させたと言われています。

 

父親譲りの武勇で名をとどろかせた彼女でしたが、1602年、病気のため34歳の若さで亡くなってしまいました。

 

1、寿桂尼(じゅけいに)

 

寿桂尼は、駿河国今川氏親の正室であり、今川氏輝、今川義元、瑞渓院の母親です。

 

 

自身の夫・氏親のみならず、息子である十代当主・氏輝、十一代・義元、孫の十二代当主・氏真の今川四代にわたって政務を補佐しました。

 

氏親の死後、子である氏輝が家督を継ぐと、当時14歳だった氏輝の代わりに16歳になるまでの2年間、母親である寿桂尼が公文書を発給していました。

 

しかし、1536年小田原城の歌会から帰ってきた氏輝と次男・彦五郎が同日に相次いで亡くなってしまいます。

 

疫病説や毒殺説、入水自殺説などがありますが原因は不明です。

 

氏輝が24歳という若さで亡くなってしまったので、寿桂尼は、その時出家していた三男に義元と名乗らせ11代目今川家当主としました。

 

ここから今川家の最盛期を築いた義元の治世が始まり、寿桂尼は参謀である太原雪斎と共に今川家のために尽力しました。

 

義元が桶狭間の戦いで戦死すると、寿桂尼の孫にあたる氏真が当主となりますが、この時も寿桂尼は政治に大きく関わっていました。

 

義元が亡くなり、氏真が当主になり8年が経った1568年、寿桂尼は亡くなってしまいます。

 

「死しても今川の守護たらん」死んでも今川家の守護となるという言葉を残したそうです。

 

今川家を大きく繁栄させた義元と寿桂尼を失った今川家は、その領土を狙われるようになってしまいます。

 

 

彼女の死後、武田氏による駿河侵攻が始まり、氏真は遠江に落ち延びましたが、翌年に徳川家康に降伏し、今川家は滅びてしまいました。



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