真田幸村の意外なエピソード5選

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「幸村」の名前

真田幸村は「日本一の兵(つわもの)」として他の大名たちからも高く評価された人物です。

江戸時代になると娯楽作品に勇猛果敢な幸村の活躍が描かれ、庶民の人気者となりました。

ところが、真田幸村が存命中、周りから「幸村」と呼ばれたことはなく、まして自分から名乗ったという事実も見つかっていません

彼の名前は「真田信繁」です。それなのになぜ「幸村」と呼ばれるようになったのでしょう。

「幸村」の名が初めて登場するのは、幸村の死後、1672年に刊行された『難波戦記』という歴史小説でした。

 

その中に、大阪の陣以降「幸村」と改名したとありますが、大阪に入った後も実際に見つかった書状では「信繁」を使っています。

 

これらのことから、「幸村」は小説上の作り話で、それが一般に広まり定着したという事がわかります。

 

国学者であった水戸黄門こと水戸光圀公も「幸村と言うは誤りなり」と言っています。

 

 

人質の人生

 

江戸時代にヒーローとなった真田幸村ですが、実はその人生のほとんどが、人質や幽閉の連続でした。

真田家を守るため、父・昌幸の命で、滝川一益、上杉、豊臣らに人質としておくられています。

人質と言っても、真田家が裏切り行為に及ばない限り、とても大切に扱われたゲスト待遇の人質でした。

 

ですので、現在の立てこもり事件の人質とは全く違い、人質というよりは預かって面倒を見るというイメージです。

その後、関ヶ原の戦いが起き、幸村一家は、西軍の味方をしたとして九度山へ幽閉の身となりました。

 

ここでの生活は貧しく厳しいものでしたが、地元の人たちに助けられ、なんとか生き延びていました。

やがて大坂の陣で力を貸してほしいと頼まれ、九度山から脱出し、49年の人生を戦の中で華やかに散ったのでした。

幸村の槍術

 

歴史雑誌「歴史人」の「真田三代の知略」という話の中で、「槍術に長け、槍で戦功を立てたものは槍働きと称され幸村もその1人であった。」という記述があります。

確かに九度山の幸村親子が暮らした真田庵には、幸村所有と伝わる十文字槍穂先が現存しています。

 

 

このことからも幸村は槍術に長けていたと考えられます。

なお、大坂夏の陣で敵陣に突入した時、幸村が持っていた薙刀が現存しています。

これは幸村を討ちとった西尾仁左衛門がとりあげ、主家の松平家に献上しました。

 

 

現在は松平宗紀氏の所有で福井県立郷土歴史博物館に保管されています。

幸村の好物

 

真田幸村の好物として言い伝えられている食べ物に、「こねつけ餅」というものがあります。

飯米を水で洗い小麦粉を足して焼いた 長のの郷土料理で、ご飯を「こね」て小麦粉を「つける」のでそう呼ばれています。

この「こねつけ餅」には真田幸村兄弟の切ない逸話があります。

大坂夏の陣の前、徳川方である兄・真田信之の元をひっそりと訪ねた幸村。

 

兄は弟が今生の別れに来たのだと悟り、別れの盃を交わしました。

 

深夜であったため、残っていた冷や飯を丸めて味噌で味付けし、弟・幸村に持たせました。

それが「こねつけ餅」だったと言われています。

兄を慕う幸村の気持ちと、弟を思いやる信之の気持ちが痛いほど伝わってくる話ですね。

死を覚悟した弟に、幼い頃から慣れ親しんだ故郷の味を持たせた信之の切なさが伝わってきて胸がギュッとなります。

 

 

幸村の最期

 

真田幸村が、大坂夏の陣で戦場に散ったのは紛れもない史実です。

 

しかし、幸村が一対一で敗れて打ち取られたというのは史実とは異なるようです。

 

幸村は、合戦中に安居神社で休んでいるところを松平忠直の家臣「西尾宗次」に討ち取られました。

 

西尾は幸村の首を持ち帰り「真田幸村と名乗ったので槍を合わせて討ち取った」と家康に報告しました。

 

しかし、家康は「お前ごときに真田が名乗るはずがない」と一喝しました。

 

昔、武士が名乗りを上げたということは正々堂々と一対一で戦ったという証拠でした。

 

幸村ほどのやり手が西尾ごときにやられるはずがない、と家康は悟ったのです。

 

これは大当たりで、西尾は誰だかわからないけど討ち取ったら幸村だった、というのが本当のところでした。

 

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