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戦国時代に活躍した名軍師3選

3、太原雪斎

太原雪斎は今川義元に仕えた家臣で、臨済宗の僧侶でもある人物ですが、名軍師としても知られている人物です。

 

1496年今川家の家臣の庵原政盛の子としてこの世に生を受けました。

 

1522年雪斎は初めて義元と出会い教育係を務めることとなるのですが、この時2度もその要請を断っていました。

 

雪斎はあくまでも僧侶として生きようとしていたことが理由です。

 

1525年、今川義元は6歳で出家し、雪斎に僧侶としての生き方のほかに兵法も習いました。

 

その頃、今川家では義元の兄、今川氏輝が家督を継いでいましたが24歳の若さで亡くなってしまいます。

 

奇しくもその弟の彦五郎も同じ日に亡くなり、氏輝の後継者争いである「花倉の乱」が起こります。

 

この時、義元の軍師として雪斎が活躍し、今川家の後継者は義元になりました。

 

その後、雪斎は武田家や北条家との間に結ばれた甲相駿三国同盟の締結などに尽力し、今川家の勢力を拡大させます。

 

こうして今川家は力をつけていきますが1555年、駿河の長慶寺で雪斎が亡くなってしまいます。

 

それから5年後、義元は雪斎無きまま桶狭間の戦いに挑みますが、ご存知の通り織田信長の奇襲により討ち死にします。

 

もし、軍師・太原雪斎が存命であったなら、桶狭間での敗戦は無かっただろうと言われるほど彼の軍師としての能力は高いものでした。

 

 

2、片倉景綱

片倉景綱は伊達政宗に仕えた重臣で、通称・片倉小十郎といいます。

1557年神職であった片倉景重の次男として生まれます。

 

姉が伊達政宗の乳母になったことから伊達政宗の小姓、いわゆる側近になります。

 

その後、景綱は多くの戦で、その知恵と策略を用いて伊達家の危機を救う名軍師となります。

 

人取橋の戦いや摺上原の戦いなどで常に政宗の右腕として活躍し、奥州の平定に寄与しました。

 

また内政でもその手腕を発揮します。小田原征伐の際には政宗に豊臣秀吉方に参陣するように助言し、政宗はそれに従い小田原参陣を決意します。

 

この時、豊臣秀吉に逆らっていれば、のちの仙台藩主は政宗ではない人物に取って代わっていただろうと言われています。

 

秀吉が天下を取った後、家康が天下を取った後も天下を狙っていた伊達政宗に仕えていたこともあり、秀吉や家康からも一目置かれる男でした。

 

1615年に59歳で亡くなりますが、その際、6名もの家臣が彼の後を追い殉死したそうです。

 

 

1、直江兼続

1560年に越後上田庄で生まれた直江兼続は上杉家の家臣でした。

 

直江兼続といえば真っ先に思い浮かぶのは「直江状」のことでしょう。

「直江状」というのは、兼続が徳川家康に書面で喧嘩をふっかけたもので、これを受けた家康は上杉討伐、俗に言う「会津討伐」を決意します。

 

家康が上杉家を討とうと出陣すると、その背後から石田三成が家康討伐の軍をあげ、これが関ヶ原の戦いとなりました。

 

この時、上杉家は最上家と戦っていましたが、関ヶ原の西軍敗訴の知らせを受け、撤退を余儀なくされてしまいます。

 

この撤退戦では、逃げながら戦うという不利な状況ながらも、前田慶次らの見事な働きで、米沢城への帰還を成功させます。

 

この時の兼続の采配は、敵であった最上家や家康にまで称賛されるものとなります。

 

江戸時代になると、兼続はその手腕を米沢藩の発展に振るい、1620年、60歳でこの世を去りました。

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