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間抜けな死に方をした 歴史上の人物5選

よぉ!全国の爆弾野郎ども!今日は間抜けな死に方をした歴史上の人物5選をお届けするぜ!

5、毛利幸松丸

幸松丸は毛利元就の兄である毛利興元の嫡男として生まれ、

1516年2歳の時に父が病死したために家督を次ぐことになる。

 

幸松丸が2歳と幼かったため、叔父の元就が後見人となっていた。

 

1523年尼子氏による大内氏の要衝、安芸国鏡山城攻略戦に元就が参加して勝利。

 

敵将の首をもって帰還すると、幼い幸松丸に首実検をするように強要し無理やり生首を見せた。

 

当時9歳の子供にとってはかなりの衝撃だったようで、そのショックで幸松丸は死んでしまった。

 

戦国の世に生まれた者で毛利家の当主でありながら、なんとも武士らしからぬ死に方はたとえ9歳であってもお粗末と言われても仕方ないだろう。

 

ただし、この死には叔父である毛利元就の暗殺説もあることを添えておこう。

4、吉田松陰

幕末の偉人として有名な吉田松陰だが、死に方が少し間抜けであった。

 

1858年、松陰は、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことに激怒。

 

幕府の老中であった間部詮勝の暗殺を計画する。

 

その翌年、松蔭に対して幕府要人への弾劾文書作成の容疑がかけられた。

 

取り調べのため江戸へ護送されたのだが、松陰は間部詮勝暗殺計画が露見したことで江戸に呼ばれたと勘違いしていた。

 

いざ、取り調べの時になると、当初の弾劾文書は松陰のものではないことがわかっており、軽い取り調べで返される予定となっていた。

 

しかし、松陰は取り調べで自ら暗殺計画を暴露してしまい、そのまま捕まって斬首刑にされてしまったのだ。

 

松蔭の早合点がなかったら、彼の生きていた明治はどんな時代になっていたのだろうか。

3、小早川秀秋

関ケ原の戦いで西軍を裏切り東軍勝利の要因を作った人物として有名だが、その最期は悲惨なものであった。

 

彼は、1600年関ヶ原の戦いの際、当初西軍として参加しながらも東軍に寝返った。

 

さらに、大谷吉継隊に突撃しこれを撃破。これにより西軍の武将たちが次々と東軍に寝返り西軍は壊滅した。

 

この後、もともと酒好きであった秀秋は前にもまして酒に溺れるようになり狂乱することが多くなった。

 

西軍を裏切ったことで多くの武将から恨みを買っていた秀秋は祟りを恐れ、酒の量を増やしたのかもしれない。

 

秀秋は関が原の戦いから2年後、酒の飲み過ぎによる内臓疾患で亡くなる。享年21歳という若さの死であった。

 

祟りにおびえたかどうかは定かではないが、酒に溺れて死ぬとは戦国大名としては情けない限りだ。

2、四条天皇

後堀川天皇の子供として生まれた四条天皇は、わずか2歳で天皇にされた。

 

四条天皇が12歳の時、御所の廊下に滑石で細工をし、側近や女中を滑って転ばせるという悪戯を思いついた。

 

その仕掛けを自ら試そうとしたところ誤って転倒してしまい頭を強打して崩御なさった。ほぼ即死だったという。

 

幼い子供とはいえ、自分で自分の仕掛けたものに引っかかって死んでしまうとは、なんとも間抜けなことである。

 

当然幼い四条天皇には皇子女がなく、後鳥羽上皇の血統以外の者の血統が断絶され朝廷や鎌倉幕府は大いに混乱し、天皇がいない状態が11日間続いた。

1、松永久秀

松永久秀と言えば悪人のイメージが強いが、事実かなりのことをやらかしている。

 

まず元の主人である三好氏の暗殺、次に足利義輝暗殺、さらには東大寺の大仏を焼き討ちするという暴れようだ。

 

新たな主人信長に対しても二度の謀反を企てた。このことが、彼の死のきっかけとなる。

 

とは言っても、謀反の罪で首を打たれたのではない。

 

信長は謀反の罪を許す代わりに、久秀の持っていた茶器の名品『古天明平蜘蛛』を差しだすよう命じた。

 

しかし、久秀は意地でも自分の首とこの茶器は渡さないと、茶釜に火薬を詰めこみ、火をつけて爆死した。

 

ちなみに、これが日本初の爆死であると言われている。この男こそ真の爆弾野郎だ。

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