5、ウィリアム・キング・ハービー
1915年、アメリカ・インディアナ州生まれのビル・ハーべイはCIAの伝説的な秘密工作員として知られています。
彼は、ベルリンにあったソビエト軍本部の通信を傍受するために、大規模な諜報作戦「黄金作戦」の責任者でした。
この作戦はソビエトが支配する地域にトンネルを掘って、無線を傍受するというものでした。

採掘は1954年から始まりましたが、世界で最も厳重に警備された場所だっただけに、完成まで約1年の期間を要しました。
その後、ソ連陸軍の通信を傍受することを成功させました。
そして11か月と11日の間に5万本のテープ分の会話や通信を記録したそうです。

4、ジョージ・ドール
ジョージ・ドールは1953年から71年までの間、CIAの航空事業 全てをほぼ一人で統括していた人物です。
元々は米国陸軍の航空隊の軍人だったのですがCIAの支援の元、台湾に作られた航空会社「民航空運公司」(みんこうくううんこんす)の立ち上げの時、CIAに異動しました。
民航空運公司は、表向きはアジア圏内の航空会社でしたが、裏ではCIAのアジアにおける諜報活動や、アメリカ軍の軍事物資の輸送を行っていました。

これらのCIAの航空事業を牛耳っていたのがジョージ・ドールだったのです。
71年に引退するまでの間、およそ2万人を指揮下に置き、活躍しました。
引退後はエバーグリーン航空の責任者となり、85年に亡くなりました。

3、ウィリアム・ブロ
1965年まで東京支局長を務めたウィリアムは、その後西半球局長に就任しました。
その後 チリの政治家で、社会主義政権を振るっていた ザルバトール・アジェンデ打倒工作や、アルゼンチン生まれの革命家で キューバのゲリラ指導者だったチェ・ゲバラ捕獲作戦などの指示をしています。
1972年ワシントンDCでの盗聴侵入事件に始まる、アメリカの政治スキャンダルとして有名なウォーターゲート事件の局内調査にも活躍しました。
ウォーターゲート事件の翌年、彼は引退しました。

2、ロバート・クロウリー
CIAの上級オフィサーとして、1048年から1980年の半ばまで務め、
工作本部担当の副長官補にまで昇進したロバート・クロウリーは2000年肺がんのためにこの世を去りました。
彼は死の直前に「クロウリー・ファイル」なるものを公開しています。
そのファイルには、CIAの工作員を始め協力者に至るまでの2619人の実名が記されていたものでした。
日本にも関係があるロッキード事件のもみ消し要請などについても記載されています。
岸信介元首相や緒方竹虎がCIAの工作員だったことなどもこの文書で明らかになりました。

1、バージニア・ホール
「足を引きずる女スパイ」と呼ばれたバージニア・ホール・ギヨは1906年4月、アメリカ・メリーランド州ボルチモアで生まれました。

コロンビア大学でフランス語、ドイツ語、イタリア語を学び、1931年からポーランドのアメリカ大使館で領事業務員として勤め始めます。
その翌年、狩りの最中に誤って自分の左足を撃ってしまい、ひざから下を切断し、義足での生活を余儀なくされます。
義足になったことでキャリアを諦めた彼女は、第二次世界大戦が始まると、ロンドンに向かいイギリス特殊作戦執行部、通称SOEに志願。
そこでは、フランスの、地下レジスタンスの活動を支援。フランスがナチスに占領されたためにフランスを離れました。
1944年にアメリカ戦略諜報局、通称OSSの特殊作戦支部に加入。
そこでは、ドイツ軍に対抗するため、ゲリラ戦術訓練の支援や情報収集などの諜報活動を行っていました。
1950年OSSのエージェントであったポールという男性と結婚。
翌年からはCIAに所属し15年間、特別活動課の一員として働き、引退後は故郷でのんびりと暮らし、1982年に亡くなりました。
第二次世界大戦下において、民間人女性ではただ一人、殊勲十字章を授与されています。

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