5、宮下昌己VSウォーレン・クロマティ
1987年6月11日、熊本藤崎台球場の中日対巨人の試合で、7回の表にウォーレン・クロマティ選手が背中にデッドボールを受けました。
クロマティ選手は相手ピッチャーの宮下投手に帽子を取って謝れというジェスチャーを見せましたが、宮下投手はそれを無視。
これに激昂したクロマティ選手が宮下投手に殴りかかり、それを合図に両軍の選手がベンチから飛び出す乱闘となりました。
クロマティ選手は桑田真澄選手に抑えられ、それ以上の暴力は加えませんでしたが、退場処分となりました。
この日は広島の衣笠幸雄さちお選手がルー・ゲーリックの連続出場記録に並ぶ 偉業を達成した日でしたが、
翌日の新聞は衣笠の記録よりもこの乱闘を大きく取り上げていました。
与田剛VSグレン・ブラッグス
1994年6月22日ナゴヤ球場で行われた中日対横浜の試合でのことです。
中日の与田剛投手が投げたボールが横浜の助っ人 グレン・ブラッグス選手をかすめました。
そこで与田投手が謝る素振りをみせなかったため、ブラッグス選手は与田投手に殴りかかりました。
すると、すぐさま両軍の選手が入り乱れる乱闘となりました。
与田投手とブラッグス選手が退場となり、その場は収まりましたが、与田投手は怒りが収まらなかったようで、ベンチに戻ってからグラブを投げつけていました。
2:44あたり
東尾修VSリチャード・デービス
1986年6月13日の西武対近鉄の試合でのことです。
西武の東尾投手が投げた内角へのシュートが近鉄のリチャード・デービス選手の肘に直撃。
デービス選手はマウンドに走り寄り、東尾投手に殴りかかりましたが、これに対し東尾選手も応戦。
さらには、両チーム入り乱れての大乱闘となりました。東尾投手はもともと内角で勝負するタイプのピッチャーで、与死球記録は現在でも歴代一位の記録となっています。
この内角球が打者を威嚇するようにギリギリを攻めてくるので他球団からの批判も強く、打者の不満も溜まっていた矢先の出来事でした。
この暴力沙汰でデービス選手は退場となり、10日間の出場停止処分を受けましたが、東尾投手はそのまま完投して、この試合の勝利投手となりました。
中西親志VSダン・グラッデン
1988年から94年までヤクルトに在籍したキャッチャー 中西親志選手は、
当時有名だった古田敦也選手の影に隠れ、それほど出場試合数が多い選手ではありませんでしたが、4回乱闘騒ぎを起こしています。
その中でも、1994年5月11日神宮球場のヤクルト対巨人戦は最も激しいものでした。
まず、ヤクルトの西村龍次投手が巨人の村田真一選手の頭部にボールを当ててしまい、村田選手は負傷退場となってしまいました。
すると巨人の木田優夫投手が、打席に立った西村選手にボールをぶつけてしまい、序盤から険悪なムードが広がりました。
そんな空気の中、西村投手が巨人のダン・グラッデン選手に対し内角の厳しい球を投げたため、グラッデン選手はマウンドへと詰め寄ります。
そこでキャッチャーの中西選手がグラッデン選手を制止しようとしたところ、マスク越しに殴られます。
これがきっかけとなり、本塁付近で乱闘が始まりました。
グラッデン選手と中西選手の殴り合いはとても激しいものになりました。
結果、グラッデン選手は指2本を骨折し、中西選手は顔面を骨折する大惨事となってしまいます。
グラッデン選手はケガが原因となり、この年で引退。中西選手もこの乱闘から出場機会が減り2年後に引退しました。
荒川博VSジーン・バッキー
1968年のシーズンも終わりに近づいた9月17・18日の、ダブルヘッダーを含む3連戦は巨人・阪神の首位攻防戦でした。
最初の2試合に連勝した阪神は巨人にゲーム差なしにまで詰め寄りました。
しかし、18日のダブルヘッダー第二試合は、阪神の先発ジーン・バッキー投手の乱調で巨人に先制を許してしまいます。
そして迎えた4回表。打席に立った王貞治選手に投げた初球は頭の近くをかすめ、第二球は膝元への危険な球でした。
王選手は初回にもデッドボールを受けていたので、ムッとした表情を見せましたが、なんとか自制しました。
しかし、巨人のコーチで王選手の師匠でもある荒川博コーチがベンチから飛び出して、バッキー投手に蹴りを入れました。
これにバッキー投手も応戦し荒川コーチの顔面にパンチを返し、乱闘となりました。
殴られた荒川コーチは4針を縫う怪我を負い、殴ったバッキー投手も親指の付け根を骨折しました。
バッキー投手はこの試合以降勝ち星をあげることができず、翌年に引退することとなりました。
でも、バッキーさんめちゃくちゃいい人です!
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