5、ピエルマリオ・モロジーニ
イタリアのサッカー選手でASリヴォルノ・カルチョに所属していたピエルマリオ選手。
チームではミッドフィールダーとして活躍し、将来有望な選手であったが、不慮の事故で25歳という若さで亡くなってしまった。
2012年4月14日、ペスカーラ・カルチョとの一戦に出場していた彼は試合開始から31分が経過したあたりで突如ピッチに倒れた。
すぐにチームメイトや審判が駆け寄り、救急車で近くの病院に運ばれたが、すでに手遅れだったという。
彼の両親も彼が18歳になる前に亡くなっており、弟も両親の後を追って自殺している。
そのため、ピエルマリオの家族は身体障がい者の姉だけだった。
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4、ダグラス・デッジ
31歳のダグ・ダッジは近代の総合格闘技で初めて試合中の外傷が原因で亡くなった人物だと言われている。
彼はアラバマ州で総合格闘技のジムを運営する5児の父でもあった。
1998年デッジは、ウクライナで行われた総合格闘技の大会に参加した。
この大会でエフゲニー・ゾロタレフというウクライナの選手と対戦した。
試合開始から5分間が経過したとき、デッジはマウントポジションを取られ、頭部に鉄槌パンチを15発も浴び、降参した。
その後、デッジは立ち上がろうとしたが、すぐに倒れてしまい病院に搬送されたが、2日後に死亡。
原因は深刻な脳損傷だったそうだ。
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3、ベニー・パレット
1937年、ベニー・パレットはキューバに生まれ、貧しいサトウキビ畑の労働者として育った。
18歳の時にプロボクサーとしてデビュー。その5年後には世界ウェルター級のタイトルを獲得した。
しかし、翌年の1961年エ2度目の防衛戦で、エミール・グリフィスに王者の座を奪われてしまう。
それから半年後に、今度はパレットが挑戦者としてグリフィスに勝負を挑み勝利し、王者の座を取り戻す。
その翌年3月にマディソン・スクエア・ガーデンでグリフィスと雌雄を決するための対戦が行われる事になった。
この試合は因縁の対決ということもあり、体重測定の時点から一触即発の状態であった。
ついに訪れた1962年3月24日。12ラウンドでコーナーに追い詰められたパレットは、グリフィスの連打を浴び敗北している。
その場で失神したパレットは病院に運ばれたが、意識が戻ることはなく、1週間後に亡くなった。
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2、トム・シンプソン
イギリスの自転車競技選手だったトム・シンプソンは優秀な選手で1965年にはツール・ド・フランスで6位を獲得している。
1967年再び、ツール・ド・フランスに参加したシンプソンはひどく疲れた状態だった。
それでも、レースに参加したシンプソンだったが、死の山と呼ばれるモン・ヴァントゥでフラフラになり、倒れてしまった。
チームスタッフが駆け付け、レースを辞めるように言ったが、シンプソンは再び自転車に跨り、走り始めた。
しかし、またすぐに倒れてしまい、今度は起き上がれなくなったため、すぐに救急減りで病院に運ばれたが、すでに息を引き取っていた。
シンプソンの体内からはアンフェタミンなどが検出されたが、直接的な死因は熱中症と診断された。
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1、ピエール・ルヴェー
フランス生まれのピエール・ルヴェーは、幼い頃にル・マン24時間レースを観戦したときから、魅了され参加したいと思うようになっていた。
1939年に初めてル・マンに出場してから、なんどか出場したが1955年6月1日に開催されたレースが最後のレースとなった。
レースが始まって2時間ほどたったとき、ピエールはおよそ時速240キロで直線を走っていた。
その時、前方を走る車がピットインする車をよけようとした際にルヴェーの車と衝突。
ルヴェーの車は壁に乗り上げて、観客席に突っ込んだ。
その時に吹き飛んだ車のパーツが砲弾のように観客席に飛び散り、その場はさながら戦場のような状況になったという。
ルヴェーはこの衝突により死亡。観客83人が死亡し、120名が負傷するモータースポーツ史上最悪の事故となった。
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