5、サド侯爵
SMのSである「サディズム
の語源となったマルキ・ド・サドは、18世紀の作家だ。
サド侯爵は自身の作品の中では残虐なプレイ描写をし、暴力的なポルノグラフィティを生み出した。
さらには、実際に乱交などの性犯罪を犯し、牢獄に入れられたほどである。
これだけのエピソードから、ドSであると思われていたサド侯爵だが、実はMだったという事実がある。
投獄中の彼は、妻から差し入れられた円筒状の物で肛門自慰にふけっていたのそうだ。
正確にいえば、極端なSとMが同居していたという感じだな。
どちらにしても彼の性癖はつきることがなかったということだ。
4、チャールズ・チャップリン
イギリスの偉大な映画俳優でありコメディアンとして有名なチャップリン。
彼は完璧主義者で反ナチズムだったが、極端な性癖といえるものがあったと言われている。
実は、チャールズ・チャップリンはかなりのロリコンで、ハリウッドでは「小児科医」というあだ名がついていたほどなのだ。
彼は生涯4人と結婚しているが、4人中、3人は女性が10代の時に結婚している。
最後の結婚は彼が54歳の時で、妻のウーナ・オニールは17歳だった。
また2人目の妻は「黄金狂時代」で共演した当時15歳のヒロイン役のリタ・グレイだった。
天才と何とかは紙一重なんて言うけれど、世に名前を残した人ほど何か変わったところがあるんだな。
3、小林一茶
「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」などの俳句で江戸時代を代表する俳諧師の小林一茶。
彼は変わった性癖というより、かなりの精力の持主だったようだ。
彼が52歳の時、妻にした28歳のお菊との性交の回数を彼は毎日日記に記していた。これも少し変わっている。
日記によれば、8月8日・5回、12日には3回、15日も3回とかなりの数をやっていたようだ。
お菊が37歳の時に先立たれだが、すぐに2人目の妻を迎え、晩年の64歳でも3人目の妻を迎えている。
一茶は連日連夜の交合に及び、妻の妊娠中でもそれは絶えることがなかったという。
ついには58歳で脳卒中になり半身不随となったあとも、その精力は衰えなかったそうだ。
「やせ蛙」に負けるなと言った彼の本心はどういうことだったのか色眼鏡で見てしまうのは失礼だろうか。
2、ジャン・ジャック・ルソー
ジュネーブ共和国で生まれた有名な哲学者のルソーの変わった性癖は、「露出狂
だった。
ルソーと言えば、その自己愛や自尊心などの思想がフランス革命にも影響を与えたと言われる人物だ。
その一方で、内面にはマゾヒズム的な露出癖という性癖の持ち主だったのである。
彼の「告白」という著書に、若い頃から露出癖があり、少女の前でお尻を見せたり、ズボンを下ろして見せたりして快感を得ていたと記されている。
今なら「わいせつ罪で逮捕ものだが、そんな人が世の中に影響を与え、時代を動かしていたというのも不思議な話だ。
1、エカテレーナ二世
ロマノフ朝の第8代皇帝で34年間も女王として君臨したエカテレーナ二世は、ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナまで広げた実力者だ。
その性格も自由奔放なもので、性欲も半端なものではなかった。
彼女は気に入った男性を見つけると、性格や教養はもちろん、性交のテクニックやイチモツのサイズまで調べさせた。
その上で自分の基準にクリアしたものを愛人としていたのだ。
彼女は60歳を過ぎてからもその精力は衰えることなく、22歳の近衛兵をそばに置いていたという。
そんな女王の営みが激し過ぎたせいか、彼女の寵愛を受けたものはほとんど早死にしている。
孫のニコライ1世から「王座の上の娼婦」などと言われるほどだったことを彼女や国民はどう捉えただろうか。
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