第二次世界大戦中に起きた真相が未だ謎な事件5選



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5、ロサンゼルスの戦い

太平洋戦争が始まって間もない1942年2月25日、あるニュースが全米を震撼させました。

 

それは太平洋に面するロサンゼルス上空に日本海軍の飛行機が出現し街を空襲したというものです。

 

このころの日本海軍はイギリス軍と戦った末にシンガポールを陥落するなど、序盤での戦いを優位に進めていました、

 

そのため、日本海軍がアメリカ本土までやって来るのは時間の問題ではないかとアメリカ国民も不安に感じていた時期でした。

 

その飛行機は撃ち落とされましたが、迎撃に使用された対空砲火の破片に当たった市民が3人死亡したほか、ニュースに驚いた市民が3人心臓麻痺で亡くなっています。

 

ところが、日本側には空襲をした記録はなく、飛行機を発着させる航空母艦もアメリカ本土の近くにはいませんでした。

 

あの日、ロサンゼルス上空に飛来したものの正体は未だに分かっていません。

 

 

4、ハインリッヒ・ミューラーの行方

 

バイエルン州の警察で働いていたハインリッヒ・ミューラーは、ナチスが政権を握ると、ナチス親衛隊に加入。

 

 

彼はすぐに頭角を現し、秘密警察ゲシュタポの重要人物になりました。

 

ユダヤ人絶滅計画を画策するハインリッヒ・ヒムラーと、個別のホロコースト実績をまとめる事務担当のアドルフ・アイヒマンの間に入る中間管理職的な役目を冷徹にこなしました。

 

しかしミューラーは戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判にかけられることはありませんでした。

 

というのも、行方がわからなくなったからです。

 

ヒトラーが自殺した翌日の1945年5月1日までミューラーがベルリンにいたことまでしか分かっていません。

 

ソ連軍に包囲され混乱していたベルリンで死んだのか、どこかに逃げたのか、あるいはソ連に匿われたのか。

 

はたまた亡命したのかと様々な説が飛び交っていますが、決定的な証拠は未だ見つかっていません。

 

 

3、ナチスに奪われた美術品

 

ヒトラーが政権を取った1933年から、ナチス・ドイツの工作員が組織的にヨーロッパ中の金銀宝飾品、絵画、陶芸、書物などを盗んでドイツに送るようになりました。

 

その結果、ナチス・ドイツはヨーロッパの美術品のおよそ20%を略奪したといいます。

 

略奪されたものの多くは戦後に返還されましたが、今なお10万点が未返還で、その所在が分かっていません。

 

ポーランドの美術館から盗まれたラファエロの「若い男の肖像」なども、いまだに見つかっていません。

 

2012年には、シャガールの絵画を含む略奪された美術品の一部がとある画商のもとで発見されました。

 

とはいえ、これは略奪された美術品のほんの一部でしかありません。

 

 

2、チャンドラ・ボースの事故死

イギリスの植民地支配を脱し、インドの独立を目指して活動を続けてきたスバス・チャンドラ・ボース。

 

 

彼はインド独立のためであれば何でも利用するというスタンスの活動家でした。

 

第二次世界大戦中はイギリスを敵とする日本の後ろ盾でインドの独立を実現しようと画策しました。

 

しかし、日本が無条件降伏したことで、ボースはソ連の協力を求めるべく、ソ連に亡命することを決めます。

 

戦争終結直後の1945年8月18日、ボースはソ連軍が占領する大連に向かおうと台湾で飛行機に乗りこみます。

 

しかし、飛行機は離陸直前にプロペラが外れ土堤に衝突・炎上しチャンドラ・ボースは脱出し病院に運ばれます。

 

その後、病院で亡くなりましたが、彼の人望ゆえ亡くなったのは別の人物という説が根強く信じられてきました。

 

ガンジーも当初は日本の謀略を疑い、ボースは死んでいないと信じていました。

 

インド政府は21世紀にいたるまで何度も調査委員会を作って事実の調査をしました。

 

政府の見解としてボースは台湾で事故死したと結論づけています。

 

それでも、決定的な証拠がないとして第二次世界大戦でのインド最大の謎とされています。

 

 

1、カップ・アルコナ号事件

 

戦争末期の1945年5月3日、ドイツは敗戦濃厚な状況となり、ソ連赤軍の追撃に苦戦している状況でした。

 

ドイツ国内の強制収容所からは多くの収容者たちが解放されていました。

 

その中でノイエンガムメ強制収容所、マグデブルグ強制収容所、メクレンブルグ強制収容所に収容されていた人たちに悲劇が起きました。

 

これらの強制収容所に収容されていた収容者たちはカップ・アルコナ号、ティールベク号、ドイッチュラント号の3隻の船に乗せられました。

 

これらに乗船していた人の大半はロシア人とポーランド人で、それ以外に24か国の捕虜が乗っていました。

 

カップ・アルコナ号には8000人ほどの人が乗っていたため、食料や水は不足しており良い環境ではありませんでした。

 

とはいえ、収容者たちはこの船で母国へと帰れるのだからと我慢をしていました。

 

出港してから、すぐにドイツの出来国であるイギリス軍の戦闘機がカップ・アルコナ号の上空に現れました。

 

 

驚くことにこれらの戦闘機はカップ・アルコナ号に攻撃を仕掛けてきたのです。

 

カップ・アルコナ号の乗員たちはすぐに大きな白旗を振り、戦う気はないことをアピールしました。

 

しかし、イギリス軍は攻撃をやめるどころか、他の2隻にも攻撃を加えたのです。

 

ロケット弾や爆弾、機関銃から攻撃を受けたカップ・アルコナ号はじめ3隻の船は30分と経たずに海へと沈められました。

 

これにより7000人近くの人が命を奪われました。

 

軍事的機能のない船に攻撃を加えた上に白旗も無視。本来であれば戦争犯罪です。

 

しかし、イギリス軍は無慈悲に攻撃を行いました。この攻撃を命令した人物や、命令した理由は全くもって不明です。

 

ちなみにカップ・アルコナ号はドイツ版の映画タイタニックでタイタニック号の代わりを務めていました。

 

タイタニック号の犠牲者は1523人でしたが、代役を務めたカップ・アルコナ号は4倍以上の犠牲者を出す皮肉な結果となりました。

 

 



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