5、炮烙(ほうらく)

中国最初の王朝である殷の時代に炮烙という刑があったことが、歴史書「史記」に記されています。
罪人に油を塗った金属製の丸太の上を裸足で歩かせるというもので、渡りきれば罪を免れ釈放されるというものでした。
しかし、丸太は下からの火で熱せられ、触ることさえできないようなものだったため、渡り切ることができた罪人はほとんどいませんでした。
それでも罪人は釈放されることを夢見て、灼熱した丸太の上を歩きました。
途中滑って足を踏み外すと、丸太から落ちまいとして必死にしがみつくのですが、結局は力尽きて猛火の中に落ちて焼け死ぬのが通例でした。
王や王妃はこういった光景を見ては、笑い転げて喜んでいたそうです。
4、簀巻き

「簀巻きにして大阪湾に沈めたろか」という表現がありますが、この刑は正式な刑罰ではなく私刑として行われていました。
賭場を開いて生活をするいわゆる博徒という人たちが借金の取り立てから逃げようとした人を見せしめとして行っていたのが簀巻きです。
対象者をワラなどで出来た筵(むしろ)でぐるぐる巻きにして動けない状態にし、水中に放り投げるというものです。
必ずしも殺すことが目的ではなく、誠意を見せない客に怖い思いをさせるのが主たる目的でした。
ただし、死んでしまったら、それはそれで構わないという人にしか行わなかったそうです。
3、車裂きの刑

中世のヨーロッパでは、罪人を処刑する際に車輪が利用されることがよくありました。
人を車輪に踏ませて手足を粉砕したり、大きな木製の車輪に体を固定させて、こん棒などで殴るなどのものがありました。
しかし、車輪を使った刑で最も残酷なのは古代中国で行われていた車裂きの刑といえるでしょう。
罪人の手足を4つの馬車につないで、同時に馬車を別々の方向に進めるというものです。
この刑を受けた罪人の体は、手足と胴体がいとも簡単に5つのパーツにちぎれたといいます。
2、釜茹で

釜茹での刑といえば石川五右衛門のケースがよく知られています。
石川五右衛門は桃山時代に京都を荒らしていた盗賊団の頭で、逮捕されたのち見せしめとして、釜茹での刑に処されました。
煮立てた湯の中に人を投げ入れて殺す釜茹での刑は古代中国では殷王朝の時代からあったことが記録に残っています。
皇帝が人質を煮込んだスープをその人質の父親に供したというのが記録に残る最初の釜茹でのケースです。
秦王朝末期に天下取りまであと一歩というところまで迫った項羽も、たびたび敵を釜茹でにしました。
項羽が最終的に天下を取れなかった理由の一つは、釜茹での刑を執行するたびに、人心が離れていったことでした。
またイギリスでも16世紀に一時期釜茹でが処刑方法として採用されていたことがありました。
しかし、釜茹での執行例は3件だけで、新しい王が即位すると直ちに廃止されました。
1、腰斬刑(ようざんけい)

処刑というとギロチンなど頭部を切断するイメージですが、紀元前の中国では死刑執行で切断する部位といえば、頭部ではなく腰でした。
台の上に罪人をうつ伏せに寝かせ、執行人が大きな斧で腰部を切っていきました。
首を切るのとは異なり、胴体を切られても即死することはなく、罪人は刑を執行されてしばらく経ってから出血多量やショックで亡くなりました。
その後腰斬刑の執行方法は進化し、現代の裁断機のような形状の道具が使用されるようになります。
てこの原理が使われるため、死刑執行人の体重だけで、それほど苦もなく罪人の腰を切断できるようになりました。
しかし、苦しんで死んでいくという残酷な刑であるため、清の時代に腰斬刑は廃止されましたが、
現代中国の俗語ではまだ使われていて、テレビドラマなどの打ち切りを意味する言葉となっています。
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