戦国時代の美女五選

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5、駒姫

駒姫は安土桃山時代に、最上義光と大崎義尚の娘との間に生まれました。

駒姫はその類まれなる美しさから、父母に溺愛され育てられ、その美貌は「東国一の美少女」と称されるほどでした。

この名声が、関白・豊臣秀次にも届き、秀次は駒姫を側室に差し出すように命じます。

こうして、15歳だった駒姫は京へと向かいます。到着後、最上家の屋敷で旅の疲れをいやしていたところ、悲劇は起きます。

豊臣秀吉の命令によって秀次は切腹させられることになったのです。さらに秀次の側室たちは三条河原で処刑されることになります。

その中には、まだ正式に側室にもなっていない駒姫もいたのです。

さすがの秀吉もこれは気の毒と考え、彼女は処刑しないように指示を出しました、その報が一足遅れとなり駒姫は処刑されてしまいました。

 

4、細川ガラシャ

細川ガラシャは1563年に明智光秀の娘として生まれました。本名は たまといいます。

1578年、彼女が15歳の時、織田信長の勧めで丹後の細川忠興に嫁ぐことになります。

その美しさに見とれていた植木職人を忠興が手討ちにしたというエピソードもあるほどです。

その後、皆さんもご存知の「本能寺の変」が起き、娘のたまも離縁されてもおかしくない状況でしたが、義父の細川藤孝がたまを幽閉し害が及ばないようにしました。

その後、たまは日本人のコスメ修道士の話を聞きキリスト教にのめりこんでいきます。

こうしてキリスト教に改宗し、洗礼を受けた彼女は、ガラシャという洗礼名を受けました。

ガラシャという言葉はラテン語で神の恵みという意味を持ちます。

1600年上杉討伐に夫の忠興が向かった際、石田三成が徳川方の妻子を人質にしようとします。

細川忠興は家老に「万が一妻に危害が及ぶ時は、妻を殺し、家臣も皆死ぬように」と言い残していました。

しかし、ガラシャは他の家臣は逃し、自らは家老に介錯されその人生を終えました。家老はガラシャの遺体が残らないように屋敷に爆薬を仕掛けて自刃して果てました。

 

3、茶々(淀殿)

茶々は浅井長政とお市の方の間に生まれた3人の娘の長女で、母親譲りの美女でした。

お市の方にずっと憧れていた秀吉は母親によく似た美人の茶々を側室にすることを強く望んでいました。

しかし、秀吉は茶々の父母の敵であったため、何度も反発しましたが、ついに折れて側室となりました。

恐らく、秀吉の子を産んで、その子を天下人にしたいと考えたのではないかと言われています。

実際、秀吉が亡くなったあとは嫡男の秀頼の後見人として大阪城の主導権を握っています。

その後、大坂夏の陣で敗北してしまい、秀頼とともに自害しました。

戦国という時代でなければ、幸せな暮らしができたのでしょうが、時代がそれを許してくれなかったようです。

 

2、京極竜子

京極竜子は戦国時代から江戸時代初期にかけての女性です。初めは武田元明の妻となりますが、その夫は秀吉に殺されてしまいます。

寡婦となった竜子は、その後秀吉の側室となっています。

同じく秀吉の側室であった淀殿とは、負けず劣らずの美しさだったといいます。

京都の誓願寺にその肖像画が残されており、当時の年齢は40歳ほどと思われますが、端麗な容姿をしています。

秀吉の死後は出家し、自ら居を構え静かに暮らしたそうです。

 

1、お市の方

お市の方は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、かの有名な織田信長の妹です。

彼女は戦国一の美女と言われており、多くの家臣たちが彼女の美貌に恋い焦がれていたそうです。

そんな彼女が嫁いだ先は近江の大名である浅井長政でした。この婚姻で織田家と浅井家は同盟を結ぶことになります。

夫婦の関係は良好でしたが、信長が朝倉義景を攻めたことから、浅井家は織田家と断絶することになってしまいます。

浅井長政は織田家との争いで負けを覚悟し、お市の方と子供達を城から逃し自害しました。

その後、お市の方は清洲城で平穏に過ごしていましたが、信長が本能寺の変で自害した後、1582年柴田勝家のもとへ嫁ぎます。

しかし、翌年に勝家が秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れたため、娘たちを逃し夫とともに自害しました。享年36歳でした。

亡くなった時、36歳だった彼女は肌もキレイで、どうみても22、3歳にしか見えなかったそうです。

今で言う美魔女ですね。もし、長生きしたとしても、その美貌を保ったことでしょう。

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