壮絶すぎる戦国時代の名合戦5選



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5、壮絶な籠城戦・三木合戦

1578年から1580年まで播磨国 三木城で行われた織田信長と別所長治の戦いです。

 

天下統一を狙う織田信長は、毛利元就の勢力圏である中国地方を攻めるよう羽柴秀吉に命じました。

 

この時、小寺孝高や黒田官兵衛が活躍しています。

 

また、官兵衛は、主君であった小寺政職や別所長治、赤松則房などに、毛利から織田へつくように説得します。

 

毛利の領地に近い宇喜多直家もその説得に応じます。

 

その矢先、織田方へついていたはずの別所長治が毛利輝元の誘いで反旗を翻し、三木城に籠城しました。

 

これを機に、荒木村重や中川清秀なども信長に謀反を起こし官兵衛の主君の小寺政職までもが毛利方についてしまいます。

 

正攻法では勝ち目がないと悟った秀吉は、城への補給路を断つ、兵糧攻めを行います。

 

この作戦は竹中半兵衛の案で「三木の干殺し」といわれ、現在まで語り継がれています。

 

 

兵糧攻めから1年10か月、食料は底を尽き、1000人にも及ぶ餓死者が出る事態となり、いよいよ万事休すとなります。

 

そこで秀吉は城主一族が切腹をすれば、城兵の命は助けるという条件を提示します。

 

別所長治はこの条件を飲み三木城を開城。その後、切腹して果てました。

 

秀吉は味を占めたのか、この戦以降、兵糧攻めを良くするようになったそうです。

 

 

4、鳥取城の戦い(鳥取県鳥取市)

1581年7月、「三木の干殺し」から半年後のことです。羽柴秀吉は因幡国の鳥取城攻めを始めました。

 

秀吉が「降伏すれば因幡一国を安堵する」と申し出たことから城主の山名豊国はそれに従います。

 

しかし家臣の森下道誉(もりした どうよ)や中村春続(なかむら はるつぐ)らは納得せず、城主を吉川経家(きっかわ つねいえ)に変えて立ち上がりました。

 

経家は籠城戦に備えて食料を蓄えようとしますが、秀吉が先に高値で米を買い占めていたのです。

 

その上秀吉は補給路だった雁金城を攻撃し、完全に鳥取城を孤立させたのでした。

 

鳥取城には兵士だけではなく、周辺の農民まで立てこもっていたのでその数は4000人以上だったと推察されています。

 

少ない食料はすぐに底を尽き、木の根まで食べるほどで、餓死者が多く出る事態となりました。

 

極度の飢餓状態に、籠城している人たちは人の肉までも食べることになったそうです。

 

 

日本の歴史上、最も酷い籠城戦と言える戦いと言えるでしょう。

 

この状況を見かねた経家は秀吉に屈服し、自分の命と引き換えに城の中の者を助けてくれるよう願い自刃して果てました。

 

秀吉は実際の首謀者ではない経家の命まで取ろうとは考えていませんでしたが、経家は人の肉まで食らう地獄のような籠城戦の責任を感じたのか自ら死を選んだのでした。

 

あまりにも悲惨な戦いだったこの合戦は「鳥取の渇え殺し(かつえころし)」と言われ語り継がれていますが、

 

あまりにも凄惨な光景だったため、大河ドラマなどで再現されることはありません。

 

 

備中高松城の戦い(岡山県岡山市)

1582年3月から6月にかけて毛利軍の最前線ともいえる備中高松城を豊臣秀吉が攻撃した戦いです。

 

清水宗治を藩主とする高松城は7つもの支城を持つ上に、5000人を超える兵が城のまもりについていたため、秀吉はどう攻めるか悩みました。

 

そこで秀吉は高松城の独特の地形に気づきます。高松城は低地に建っている上、近くの足守川(あしもりがわ)を堀の代わりにしていました。

 

そこで、秀吉はその川を堰き止め、川の水を城の方へ流し込ませたのです。

すると徐々に城は水没していきはじめました。

 

 

毛利輝元が援軍を率いて高松城まで来たものの、水没していく城を見て、秀吉と争うことを断念し和睦する道へと進みました。

 

その時、秀吉のもとに織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたとの知らせが入ります。

 

そこで高松城主の清水宗治に切腹をさせ、それを見届けてすぐに京へと立ち返りました。

 

これは「中国大返し」と呼ばれ、秀吉の行動の早さがわかるエピソードとして語られています。

 

また、この時の清水宗治の切腹の作法は見事なもので、これ以降武士が切腹する際のお手本となる程だったそうです。

 

 

上田合戦(第1次)(長野県上田市)

上田は真田幸村の父、昌幸の領地でした。

 

1582年本能寺で織田信長が討たれると、真田の領地を狙い東から北条氏が、北から上杉氏が、そして南からは徳川氏が迫ってきていました。

 

 

はじめは北条氏と手を組むことにした昌幸でしたが、徳川家康に好条件を出されると、ころりと寝返ります。

 

しかし家康は北条と和睦し真田の領地の一部である沼田を北条のものにしてしまったのです。

 

これに怒った昌幸は徳川と縁を切り千曲川河畔に上田城を建て千曲川を利用した水濠に囲まれた要塞としました。

 

家康は昌幸に北条との和睦を迫りますが、昌幸は応じませんでした。

 

そこで真田に謀反ありと家康は1585年に鳥居元忠を先鋒として上田城攻めを始めます。

 

しかし、そこでは昌幸の罠が徳川軍を待っていたのです。

 

上田城の大手門、二の丸、三の丸と陣を進めた徳川軍に背後から真田軍は襲いかかり、大石や大木を落とし、鉄砲で敵を迎え撃ちました。

 

千鳥掛けの柵に阻まれ徳川軍は中々進軍できませんでした。

 

 

やっと城の中へ入った徳川軍を待って、それまで人工的に堰き止められていた、神川(かんがわ)の水を一気に流し込みました。

 

これで徳川軍は溺死者を何人も出します。結果7000人の徳川軍は1300人もの死者を出し、昌幸に大敗を喫したのでした。

 

この戦いで真田家の名は天下に轟くことになりますが、徳川家康との不仲は加速し、第二次上田合戦へと続きます。

 

5 長谷堂城の戦い(山形県山形市)

この戦いは見事な撤退戦だったと後世まで語り継がれています。

 

直江兼続が、最上家の要所である長谷堂城に上杉軍の兵1万8000人を率いて攻め込みました。

 

一方、長谷堂城の戦力は最上義光(よしあき)率いる 最上氏の重臣ら1000人ほどでした。

 

 

しかしながら、最上氏は粘り強い戦いで城を破らせることなく善戦しました。

 

これには、直江兼続は関ヶ原の結果次第で降伏するだろうと考え、完全に潰そうと考えていなかったことも理由にあります。

 

ここでどんでん返しが起こります。関ヶ原で西軍が大敗を喫したという知らせが入ったのです。

 

ここで直江は自刃しようとしますが前田慶次に諌められ、撤退することにします。

 

ここからは攻守が後退し、撤退する直江を最上が追う形となります。

 

ここで直江は慶次と共に殿(しんがり)を務め上杉軍を無事撤退させることに成功しました。

 

 

陣頭に立った最上義光の兜に銃弾が当たるほどの激戦で両軍多くの犠牲を出しました。

 

上方が敗れ、普通なら士気が下がってしまうところですが、ひるむことなく無事に撤退したその武勇を敵である最上義光、徳川家康も賞賛したそうです。

 



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