第5位、ビッグ・ショー
現在、WWEのRAW(ロウ)で活躍中のビッグ・ショーは、バスケットボール選手だったときにハルク・ホーガンにスカウトされてプロレス入りしたレスラーです。
プロレスのデビュー戦でホーガンに勝ってWCW王座に就くという快挙を成し遂げています。
ビッグ・ショーは身長213センチ、体重200キロの巨体ながら、
コーナーポストに登ってからの攻撃も見せる、俊敏なレスラーで、「世界最大のアスリート」と称賛されるのもそのためです。
若い頃にはドロップキックなどの飛び技を使っていたこともあります。
しかし、試合の最大の見せ場はビッグ・ショーの巨体が相手に投げられる場面です。
それはしばしばリングを破壊してしまうほどの衝撃を伴うものだからです。
今までビッグ・ショーはブレーンバスターなどで投げられて、何度もリングを壊してしまっています。
第4位、アンドレ・ザ・ジャイアント
彼は1970年に来日し、モンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスのリングに登場しました。
その後、身長223センチの巨人はアメリカに渡って大成功を収め、再び日本にやってきました。
その際にリングネームをアンドレ・ザ・ジャイアントに変え、新日本プロレスを舞台にアントニオ猪木らと名勝負を繰り広げたことで知られています。
当時、テレビの実況中継を担当していた古舘一郎に「人間山脈」というあだ名をつけられたのもこのころです。
1990年からは全日本プロレスに戦いの場を移し、ジャイアント馬場とコンビを組んで人気となりましたが、
次第に体調は悪化し、1993年に46歳の若さで亡くなりました。
アンドレ・ザ・ジャイアントは酒豪で知られ、サッポロビール園では大ジョッキ89杯を一晩で空にしたと言われています。
第3位、ラジャ・ライオン
東洋の巨人、ジャイアント馬場が一度だけ行った異種格闘技戦の相手だったパキスタン出身の空手家、ラジャ・ライオン。
身長209センチのジャイアント馬場よりも、見るからに長身で、そのハイキックが馬場の頭をかすめるほどでした。
試合は馬場の関節技で決着しました。
ラジャ・ライオンはこれを機に全日本プロレスに弟子入りしますが、デビューすることなく、日本のプロレス界から去り、母国パキスタンで映画俳優になったそうです。
パキスタンの空手王者であったかどうかについては疑問が持たれているラジャ・ライオンですが、身長226センチというのは間違いないようです。
第2位、サイロ・サム
ビッグ・ジョン・ハリスとかトラッパー・ジョンという名前でもリングに上がっていたサイロ・サム。
彼がバスケットボールからプロレスに転向したのは30歳を超えてからでした。
はじめは地方のプロレス団体に所属していましたが、何本かの映画に出演したことでその名が知られるようになり、
数年かけてメジャー団体WWFのリングに上がるまでになりました。アメリカのプロレス団体AWAに所属していたときは、体格がほかの選手と違いすぎるため、
主に1人で複数の敵を相手にするハンディキャップマッチの試合が組まれていました。
サイロ・サムといえばリング・コスチュームが独特でした。
上半身はTシャツまたは裸で、下半身にはタイツの代わりにサロペットデニムを穿いていたのです。
農場で働く田舎青年をイメージした微笑ましいいでたちでしたが、身長が231センチもあったので、グリーンジャイアントのようでした。
第1位、エル・ヒガンテ
アルゼンチン出身のプロレスラー、エル・ヒガンテは元々はバスケットボール選手でした。
アルゼンチンのバスケットボール史上最も身長の高い選手として活躍したのち、NBAのドラフトでアトランタ・ホークスに指名されました。
しかし、膝の故障などからバスケットボールを断念し、プロレスラーを志します。
身長が231センチもあったことから、リングネームはスペイン語で巨人を意味するエル・ヒガンテとなりました。
日本とアメリカのメジャー団体でおよそ10年活躍したあと、1999年に怪我により引退しました。
その後糖尿病を患い、2010年に44歳で亡くなります。
WWFでジ・アンダーテイカーと抗争したときの様子は今でもプロレスファンのあいだで語り継がれる名勝負とされています。
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